むじゃき

なんでもかんでもアウトプット 一日一新 抽象化する思考

お葬式の定義

久しぶりに書くブログはちょっと暗いお話し。

 

先日、母方の祖父が亡くなりました。

昨日、今日とお通夜、告別式でした。

 

 

母方の祖父にとって、初めての孫にあたる私を

今となっては、どう思っていたのかはわかりませんが、

とても可愛がられたな、と思います。

 

もう、それこそ「ぼくのなつやすみ」ばりに、

柱に身長を書いたり、一緒にプラモデル作ったり、遊びに出かけたり。

 

そんな祖父のお葬式。

 

 

正直、面倒だと感じていました。

いろんな人に怒鳴るかもしれませんが、当時、正直の感想です。

 

元々入院していて、「容態が急変した」と連絡を受けて、病院に駆けつけました。

幸い、まだ息がありましたが、午後が山だろうという話でした。

 

落ち着かない気持ちを持ちつつ、病院で待機していました。

18時を過ぎ、そろそろ孫たちは帰りなさい、と促され、

東京へ向かう特急に乗り込んだとき、祖父が亡くなったと連絡がありました。

 

・・・なんだか長くなりそうで。言いたいことはさっくりと。

 

面倒だ、と感じていたのは、

おそらく「お葬式」というイベントに対して理解がなかったからだと思います。

どんなに文字で調べたところで私にとっては文字情報でしかなく、

欠如気味の想像力では、その存在意義がわかりませんでした。

 

そして、「お葬式」というイベントをついさっき終えて、

私の中で、「お葬式」を定義できました。

備忘録を兼ねて、ここに記載します。

 

記憶に区切りをつけ、思い出にする場

お葬式では、

「祖父はこんな人だった」

「こんなことして祖父と遊んだね」

といった話をよくします。

そんな話を聞くたび、一つ一つの記憶が

人と共有されて思い出になっていく感じがしました。

 

一族を意識する場

祖父・祖母ともに兄弟が多く、私が全く知らない親戚もちらほらと。

ふと先日読んだ記事を思い出した。

弱者を抹殺する。と題してYahoo知恵袋に投稿された質問へのベストアンサーが秀逸! |

人間の生存戦略は社会性。

この全く知らない親戚と私は同じ血の成分が流れているんだ。

そんな血の社会性を感じ、ああ、これが社会性かと急に理解できた。

社会性があるから私は生きることができる。そう強く感じた。

と、同時に何か返せるようにならなくてはと思った。

 

世代交代を実感させる場

喪主は祖父の子供(私から見ると、叔父さん)が務めた。

一族の前で、祖父を見送り、祖父の遺骨を納め、祖父の位牌を持った。

その姿は今後、この家を背負うのは自分だ、と感じさせる出で立ちであった。

私もそのうち、と思うと少し怖いと感じた。私はまだまだ未熟だ。

 

辛気臭い話は嫌いだけど、事実から目を逸らしても悲しみが減るわけでもない。

こう文章に起こすことで、少しでも自分の中の心を形にしていけば、

そういう気持ちに向き合いやすいと思った。

 

語尾がバラバラ。だけど、今日はこのまま。

泣くとは思わなんだ、歳か。

 

おじいちゃん、またね。