むじゃき

なんでもかんでもアウトプット 一日一新 抽象化する思考

街の本屋がなくなってほしくない理由

本屋に行くのが楽しい。

 

インターネット通信販売や電子書籍によって、
街の本屋が消えつつある話は、
どこに行っても一度は聞く。

 

私には本屋になくなって欲しくないとても個人的な理由がある

 

 

インターネットが苦手


職業はインフラエンジニアではあるが、
私は根本的にインターネットが苦手である。

 

ここでいう苦手というのは、使いこなせているかどうかという意味であって、
できるできないよりは一歩だけ先の話。

 

主に検索するという行為が苦手だと感じている
検索を苦手と感じるのは以下の理由から。

  • 語彙が貧弱だから、検索キーワードが思いつかない。

検索キーワードを調べるために検索をする。
本末転倒が否めない。

  • 目的を持たなければ使いづらい

自分の目的が明確であればあるほど、
検索は正解に近い答えを導き出す。
これはキュレーションサービスや
Google AdSense広告にも通じるところがある。

 

逆に目的がとても曖昧なものや、
目的として意識しなかったものがある場合は
どうすればいいのだろう。

 

検索キーワードが曖昧すぎて、

検索結果はどうでもいいことまで引っ張り出してくる。
検索キーワード自体が思いつかなければ、検索することさえできない。

 

では、そんなときどうするか

 

ただなんとなく、本屋に行くことにしていた。
そこで、最初はその理由を考えるために対比してみた。
すると、見えてきたのは自分の中にある「本屋」の存在意義だった。

 

インターネットと本屋

どちらも情報収集方法の1つとして
並列的に考えることができる。

 

インターネットを能動的に

先ほど述べたように、自分の目的がある場合、
インターネットはとても強力な方法となる。

 

例えば、

  • その情報を得るために検索をする
  • 自分に合った情報をキュレーションするサービスを購読する
  • 自分の関心があるニュースをRSSでチェックする
  • ネットサーフィンに関しても自分の関心があるものが中心

例をざっと挙げてみると、ふと気付いた。
自分を中心とした世界で、自己の考えを補強するために

情報を収集することが得意なのかなと。

 

本屋から受動的に

本屋に行くこと自体は能動的な行動かもしれないが、
行動自体に期待しているのはインターネットと少し違う。

 

感覚的な問題でとても説明しづらいが、以下の表現がしっくり来た。

本屋は、なんとなく巡る。
インターネットはなんとなく辿る。

本屋の中を巡ることは、何かに期待しているから行うわけではない。
本屋に目に付く情報を受け入れるためだと思う。

 

他人が作った情報(フェアやポップ)をただただ無条件に受け入れる。
店員さんが薦めているものを手に取る。

 

それから新しい自分の関心が生まれることもある。

 

Amazonの「この商品を買った人はこんな商品を買っています」とは少し違う
まったく関心のない世界に触れる瞬間に溢れている。

 

まだ形にならない悩み・思いについて

他人の考えを見る、感じるのが得意なのかなと。

 

本屋になくなってほしくない個人的理由

他人に影響されることの多い自分にとっては、
他人の考えや思いを感じ、
自分の思いを目的として形にできる本屋にはなくなって欲しくない。

 

編集、著者、デザイナー、店員など、
ありとあらゆる人が関わって生まれた本屋。

 

あの雑多だけど、どこか整った情報のせせらぎは、
たぶんインターネットでは再現できないだろう。

 

まとめ

「情報の濁流」なインターネットと「情報のせせらぎ」な本屋。
表現が厨二的だぜ!


ただ単純に私がインターネットを乗りこなせないだけかもしれないが。。。

 

サーバーエンジニアで日々検索作業をしているから、
情報から癒されたいのだなーと感じた。

 

以上、たろいもでした。