類似:選択公理とシュレディンガーの猫
毎週木曜日は「抽象化する思考」というテーマで書く。
そう決めたが、いったい先週の自分は何を考えていたのだろうか。
すでに思考が迷走しているが、日々の中でこれとこれは似ていると感じるものをアウトプットしてみる。
今回は、選択公理とシュレディンガーの猫である。
・・・・・・いきなりぶっとんだ話になった。
選択公理とは?
集合族(Aλ)λ∈J において、任意の Aλが空でなければ、各 Aλから一斉に元を選択することができる。
現代数学の基礎に「集合論」というものがある。
自分の表現でいえば、現代数学の共通言語のようなもの。
その中で扱われる公理(理論展開をするうえでの取り決め)のひとつに「選択公理」がある。
これまた自分の表現でいえば、空っぽの箱の中からボール(元)を選び出せる、というルール。
シュレディンガーの猫とは?
まず、蓋のある箱を用意して、この中に猫を一匹入れる。箱の中には猫の他に、放射性物質のラジウムを一定量と、ガイガーカウンターを1台、青酸ガスの発生装置を1台入れておく。もし、箱の中にあるラジウムがアルファ粒子を出すと、これをガイガーカウンターが感知して、その先についた青酸ガスの発生装置が作動し、青酸ガスを吸った猫は死ぬ。しかし、ラジウムからアルファ粒子が出なければ、青酸ガスの発生装置は作動せず、猫は生き残る。一定時間経過後、果たして猫は生きているか死んでいるか。
量子力学での思考実験のひとつであり、ライトノベルなどの厨二的題材として使われるもの。
自分の表現で言えば、観測するという主観の問題点を提示した例。
選択公理とシュレディンガーの猫の共通点
選択公理は、過去に「公理として認めていいかどうか」という点において論争になったらしい。
※今ではとある結論で収束しているらしい?(勉強不足
論点は「無限個の箱からボールを選び出すということができないのではないか」
有限個の箱からボールを1つずつ選び出すことは、誰の目が見ても明らかにできる。
しかし、無限個ある箱からボールを1つ1つ選び出すことはできない・・・?
だって、その「選び出す」ことを終えることができないのだから。
いや、しかし想像上の話であるから、時間的制限の話を持ち出すのは違う。
・・・・・・とても面白いやりとりについてはこちら。
http://samidare.halfmoon.jp/mathematics/AxiomOfChoice/index.html
この文章を読みながら、ふと思う。
人間の主観的行動によって論理を組み立てるには限界がある。
この考えをどこかでも思ったと考えたとき、シュレディンガーの猫を思い出した。
人間の限界
モノの存在を「確認」するという主観的行為。
モノの存在を「選択」するという主観的行為。
人間が持つ主観的行為をもとにモノを抽象化させ、体系化し、それを学問とする。
そこにはいつも主観的行為による限界があるようだ。
知の限界は、人間の主観的行為の限界。
うむ、なんとなく、神の存在を認めたくなる。
だって、限界があるということは、その外が、その奥があるからだと考えているから。
ブログ後記
制限は創造の母である。
数学も限界があるからこそ、より創造的で神秘的な学問なのかもしれない。
数学に関する話をアウトプットしていけばいいような気がしてきた木曜日。
アウトプットに向けて、インプットしなければというテンションが高まるっ!
以上、たろいもでした。