第三回ゲームデザイン討論会に行ってきました
思いつきで、ゲームデザイン討論会を見に行きました。
忘れないうちに、
観に行った感想と、
討論の簡単な備忘録と、
それに影響された自分の考えをアウトプットしようと思います。
観に行った感想
面白そうだから、と参加費が安いことをきっかけに渋谷へ。
ちょっと駅から遠くて、開始時間ぎりぎりになってしまいましたが、無事到着。
参加費で領収書くれるんですね、私は個人的興味でしたのでもらいませんでしたが。
とても綺麗な会議室。子どもたちがお遊戯でもできそうなくらいの開放的な空間に、大きめな円卓。
円卓にはウォーゲームと枯山水。のちにニューゲームオーダーズの方々がいらっしゃることがわかりました。
適当な先頭席に座り、ノートパソコンを広げてふと周りを眺めてみると、
メガネをかけた男性が多数。私もその中のひとりですが。
でも、公民館などで行われるボードゲーム会とは違い、私は場違いな雰囲気を感じました。
討論会の最初の方で、「デジタルゲーム畑、アナログゲーム畑かどうか、加えてゲーム制作者かどうか」という確認質問がありました。
私は、割と恐る恐るアナログゲーム畑で手を挙げましたが、デジタルゲーム畑かつゲーム制作者の方が多い印象でした。
果たして、この会場にゲーム業界勤務でもない、普通?のボードゲーマーは私以外いないのではないか。
そう予感させる始まりでした。
討論会の内容は、以下の3つでした。
討論の内容は、後に書くとして。
話の内容は、小難しいことを考えることが好きな私にとってとても好奇心をくすぐられる、思考の深みにはまれる内容でした。
討論会では、まだまだ発散する内容が多く、もう少し絞り込んだところから話し始めないと、何かしらの結論に辿り着けないなと思いつつ、答えが欲しくて討論するわけではないなと感じました。
終わったあとも家に帰るまでずっと討論の内容を消化しようとしましたが、
どうやら、限界だったらしく、今、少しづつ書き出すことによって、消化し始めたように感じます。
あと、なぜか知りませんが、見終わった後、悔しかったようです。
コメンテーターの造詣の深さを見て、自分がいかに小さく考えていたことに気づいたからかもしれません。
もっと本を読んで思考しなくては。
簡単な備忘録
書いたメモを元に箇条書きで内容を書き出してみます。
- 映画性はビデオゲームに何をもたらしたか?
- 93、94年はクリエーターの作家性が見えるようになり、ハードウェア・スペックの問題によって制限されていたことがある程度解消され、やりたいことができるようになった
- 映画を作りたかったクリエーターのドロップアウト先として、ゲームというカルチャーがあった
- ゲームの見た目の美しさが良く、物語を持ったと感じ、ゲームらしさを感じなくなった
- 映画のようなムービーは、ゲームの面白さに貢献するのかしないのか、ゲームの目的(テーマ)に対して綺麗に当てはまるかどうか
- メタルギアソリッドのように、映画的演出を主軸に置かれているかどうか
- FF15では、主人公=プレイヤーの関連性を超えて、主人公を親目線に感じることがある
- 花札-歴史あるアートワーク
- 草場さんが最近デザインした花札には、インデックスを付けた
- しかとの語源は花札から、鹿の札が10点だから
- 現在を踏まえて変化していくのが、真の芸術だと考えている
- 花札を題材に歌舞伎芝居があった、ゲームがゲームの外にも影響を与えることがある
- モノの見立てをするのは、日本人が得意
- 無理ゲーなど、言葉の中にもゲームの概念が入り込んでいることが多い、共有体験をイメージさせるものとして使われている
- 作家性を消すという意味では、職人と芸術家の意味合いが近い、職人はゲームのルールの必要性を満たしながらも、デザインしている
- 最近では、海外のボードゲーム賞でも、イラスト、アートに対して評価される賞もある、国内ではゲームアートデザインとして長谷川登鯉さんが有名、分業しても評価されるようになることで、独立しても仕事ができるようになってきている
- 質疑
- なぜゲームクリエーターは、映画を目指したのか
- 当時、映画が文化の華型だった
- 江戸時代に歌舞伎がその役割を担っていただろう
- なぜゲームクリエーターは、映画を目指したのか
- ゲームデザインと物語性ーデジタル空間が開くゲームと芸術の素敵な関係
- 芸術は感性情報の刺激
- 人と関わることで、ゲームが成り立つ
- 物語性を盛り込むことで、舞台芸術がもっているような総合芸術となりうる
- 変化があることが物語
- 葛藤がなければ、物語は成立しない
- アートを組み込むと、物語性を求められる
- ゲームで語る物語には、制限があるのではないか
- ゲームは構造的に、最後には勝利、クリアするものしかできない
- ゲームでは表現できない物語はある、世の中の無常さ、切なさとか
- 改修されない伏線があってもいいのではないか、あまりに単純化しすぎてしまうと、嘘くさくなってしまう
- 渡る世間はなべばかり、というボードゲームにでもあるように、勝ちを目指すばかりだけではないボードゲームの可能性もある
- 質疑
- 締め
- ゲームを作っている人は、技術屋
- ぶきみの谷に落ちるのではないか
- アーティストであるほど、アートっぽい、という言葉を使う
- テーマ性がある
- ゲームはデザインするものである、目的・意図がある
自分の考え
ゲームはアートなのか。
今回の討論会を聞き、自分の中で、何晩か寝かせてみたところ、
以下のつぶやきに辿り着きました。
ふと思う
— たろいも (@taroimo999) 2017年2月14日
アートは共感するもので、デザインは共感させるものかも。シンプルな結論?に達した
アートは、他の人が勝手に共感するものであって、作者が勝手に生み出したもの。自然的。
デザインは、作者が、他人に共感してもらおうという意図をもって生み出されたもの。人工的。
討論会の中では、ゲームはデザインされるもの、という発言がありました。
その意見には個人的には同意しています。
ですので、それを加味してみます。
ゲームはデザインされるもの、それはアートになのか。
先ほどのゲームとアートの比較から、相対するものだと感じましたので、
ゲームはアートではない、というのが現在の個人的な感想です。
また、物語性とゲームの関係性について、討論会の中でも話し合われましたが、
まだまだ深く掘り進められそうな議題でした。
まとめ
とても考えさせられるテーマで、久しぶりに脳みそがオーバーヒートしました。
ですが、オーバーヒートした頭で、ひとつ気付きました。
討論会の中では、面白さとは何か、楽しさとは何かという視点では語られることはありませんでした。
どうやら、少し違う分野の話になりそうです。
おそらく、ゲーミフィケーションが一番近そうな気がします。
ふむふむ。
考えることは、とても面白く、そして楽しいです。
以上、たろいもでした。